ヒップホップカルチャーに欠かせない人物「クール・ハーク」

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▪クール・ハークの偉業

1970年代初め、「ダブ・サウンド」と「トースト」の故郷、ジャマイカから、12歳の少年クライブ・キャンベルが家族と共にアメリカに渡った。アメリカ人になり切ろうと考えた彼は、ジャマイカなまりの英語を直し、テンプテーションズ、アレサ・フランクリン、スモーキー・ロビンソン、ジェームス・ブラウンなどのアーティストから影響を受けながら独自の音楽スタイルを身に着けていった。


1973年の夏、彼は弟のランディがお金を貯めるために企画したパーティーでDJプレイを頼まれる。そこで彼は自分の手で改造したパワフルなサウンド・システムを持ち込み、観客を大いに盛り上げ一躍地域の人気者になった。彼はその後、「クール・ハーク」という名前で、当時最もニューヨークで危険な地域といわれていたブロンクスのクラブでDJプレイを披露することになる。
独自のサウンド・システムを使いながら、彼は初めて「ダブ・サウンド」と「トースト」、「ディスコ・ミキシング」を組み合わせることに成功した。


 当時、ブロンクスは、アフロ・アメリカン(黒人)とプエルトリカン出身のヒスパニックが住民のほとんどでした。そのため、彼がジャマイカ産のレゲエやダブをかけても、反応はさっぱりだった。そこで彼はファンクやラテン中心の選曲に切り替えると同時に「ブレイク」を多用して、一躍人気DJの仲間入りを果たした。
「ブレイク」とは、もともとジャズ・ミュージシャンが用いていた音楽用語。「ブレイク」=「ブリッジとメロディをつなぐアドリブのソロ・プレイ」のことだ。
ジャズを演奏している途中で、メロディーの演奏を一時停止し、ベースとドラムなどのリズム演奏だけにして、観客を乗せることをいう。ダブの手法を用いていたクール・ハークは、このブレイク・パートが観客たちを一気に盛り上げ踊らせることに着目。ミキシングによって「ブレイク・パート」をつなぎ、それを連発して観客たちを熱狂させることに成功したのだ。こうして、「ブレイク・ビーツ」の手法が生み出された。それは1974年頃のことといわれている。彼は「ブレイク・ビーツ」を生み出すため、ほんの一部のカッコいいフレーズを求めてレコードを買った最初のDJでもある。彼のお気に入りとしては、インクレディブル・ボンゴ・バンドの「Apache」、ジェイムズ・ブラウンの「Give It Up or Turn It Loose」(ライブ・ヴァージョン)、ジョニー・ペイトの「Saft in Africa」、デニス・コフィーの「Scorpio」などがあった。


 ハークは、注意深くダンサーを観察した。「俺は煙草を吸いながら、曲が終わるのを待っていた。すると、皆が一定のパートを待っていることに気づいたんだ」。この発見は、ルディ・レッドウッドがダブを発見したのと同じぐらい重要な意味を持つ。ダンサーが最も盛り上がるのは、曲中の短いインストゥルメンタル・ブレイクだった。バンド全体の演奏はストップし、リズムセクションだけがグルーヴを繰り出す。メロディ、コーラス、歌なんて二の次。一番大切なのはグルーヴだ。グルーヴで盛り上げて、その勢いを持続していくのである。


ハークはレコードの核にあるループ、つまりブレイクに焦点を合わせた。彼は、ブレイクのサウンドを基準として、クール・ハークならではの曲を探し始めた。
彼はさらに、他のどのDJにもマネすることのできない自分だけのサウンド・システムを所有していた。そのサウンド・システムが発する音はまさに爆音で、野外でDJプレイをやっても誰にも負けず、どんなに離れている観客にも彼の音を聞かせることができた。そして、彼は自らのDJプレイに集中するために自分で「トースト」もしくはMCを行わず、その代わりにMC担当として、コーク・ラ・ロックやクラーク・ケントなどを雇い、彼らに盛り上げ役を任せた。彼らDJたちのMCはまだラップではなかったが、その後のラップの原点になるものとなった。
こうして、クール・ハークによって成された三つのテクニックの融合からヒップホップの原形が生まれ、さらに彼のDJプレイを見た後輩たちが新しいテクニックや音楽性を付け加えていった。


さらに彼はヒップホップの歴史に対し、もうひとつ大きな影響を与えている。それはヒップホップのもうひとつの顔であるブレイクダンスに関することだ。
「ブレイキングとは、ダンスフロアでクレイジーになり、自分だけのスタイルを作り出すという意味」
ブレイキングは、音楽のビートは合わせて繰り広げられるダンスというだけではなく、攻撃を芸術に変化させた儀礼的な戦いでもある。
パーティーで一番盛り上がったのは、輪になってそれぞれがフリースタイル・ダンスを披露する、ダンス・サイファーだ。ハークの「メリー・ゴーランド」目当てでやって来た若者たちは、ここで踊ることで自らも名を馳せるようになっていた。血気盛んで個性も強い彼らに、全員がそろってステップするハッスルのようなダンスバトルを繰り広げ、ワイルドに「ブレイク」し合っていたのだ。ハークには彼らをブレイク・ボーイズ、略してBボーイズと呼んだ。


 彼は、こうして「DJの父」として、ヒップホップ界に大きな貢献を果たしたのだが、突然その活躍は終わりを迎えることになる。1977年末、彼はケンカの仲裁に入った際に左手を刺されてしまったのだ。DJプレイができなくなったこともあり、彼は引きこもり状態となり、表舞台から突如消えてしまったのだ。
しかし、彼がヒップホップ界に残したのは単なるDJプレイのテクニックだけではなく、その思想的な部分も大きかった。
「ヒップホップは今の世代の声だ。70年代のブロンクスに育っていない人々のためにもヒップホップは存在し、強大な力となった。ヒップホップには、世界中に住むあらゆる国籍の人々を結びつける力がある。


しかしヒップホップ世代は、自身の評価や立場を最大限に活用していない。ヒップホップにどれだけのパワーがあるのか、皆は認識できているのだろうか?・・・
音楽は時に、現実から逃れる薬として使われる。また人々は、悲劇が起きた時にしか話し合おうとしない。トゥパックやビギー、ジャム・マスター・ジェイが死んだ時、人々は対話を求めたが、それでは遅すぎた。ヒップホップを使って深刻な問題に取り組み、悲劇が起きる前に状況を変えようと努力する人々はまだまだ少ない。・・・


ラッパーたちに言いたい。「他人の手本になるなんてまっぴら」などという台詞は聞きたくない。そんなことを言っても、俺の息子はラッパーに影響されているのだから。・・・
今の君は派手で楽しい生活を送っているかもしれない。しかし、君がゲットーを脱したということは、必要な時に君を導き、「ほら、2ドルやるよ」と助けてくれた恩人がいるはずだ。ゲットーを抜け出そうと散々もがいてきたのだろうが、最近ゲットーに何かしてやったことはあるだろうか?・・・
ヒップホップは楽しむことが肝要。ずっとそうだった。しかし、楽しむと同時に責任も持たなければならない。ヒップホップを通じて、俺たちには自らの考えを話す場が与えられた。何百万という人々が俺たちを見つめている。パワフルな言葉を聞きたいじゃないか。人々が求めていることを話そう。
どうすればコミュニティを助けられるだろうか?俺たちは何のために戦っているのだろうか?社会の状況を変えるためにヒップホップ世代が一丸となって投票したり、自ら組織を設立したら、どんなことが起こるだろうか?きっと大きな影響を与えるに違いない。・・・」
「ヒップホップ・ジェネレーション」より

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