革新的DJプレイの完成者グランドマスター|NOA ONLINE DANCE

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▪グランドマスター・フラッシュ


「DJプレイの元祖」がクール・ハークで、そこから派生した「ヒップホップ文化の元祖」がアフリカ・バンバータだとすると、二人のパフォーマンスを研究することで、それを技術的にレベルアップし、さらにそこにメッセージ性を加えた「DJプレイの完成者」が、グランドマスター・フラッシュだった。


バルバドス系移民だった両親のもとに5人の姉弟の4番目に生まれたジョセフ・サドラーは、ブロンクスの中でもゲットー・ブラザースの縄張りで育ち、ごく自然にストリートの文化を吸収しながらの少年時代を送っていた。ただし、彼には普通の少年たちとは違う部分があった。それは父親からの影響もあり、機械に興味があり、ラジオやステレオを分解しては、その仕組みを解明することが大好きだったことだ。そのため、彼は野外で行われるパーティーに行っては、そこでDJが使用する機材の仕組みと性能に釘づけになる変わった少年だった。どうやれば、あんな音が出せるのか?観客を盛り上げるテクニックには何が必要か?そこには法則性がないのか?もっと正確に音をつなぐことができないのか?そんなことを考えながら、自宅で研究を繰り返す日々だったようだ。
そうして生み出されたのが、カッティング、バックスピン、ダブルバックなどの手法を使い「クイック・ミックス」の理論だ。


▪革新的DJプレイの確立


MCが会場の士気を高める一方、フラッシュはレコードを逆回転させたり、肘でスクラッチしたり、背中でクロスフェーダーを動かしたりと、人目を引く技を披露した。また、彼はときどき13歳のセオドアを連れてきた。じきにグランド・ウィザード・セオドアと名付けられるその少年は、フラッシュのセオリーを応用してスクラッチを生み出し、ブレイクビーツの演奏中、狙った場所ぴったりに針を落とすことができた。こうしてショーは完成された。スクラッチ・アンド・ミックスといったテクニックや、目も眩むような高性能のパフォーマンスで観客を楽しませるフラッシュの革新的DJプレイがとうとう確立されたのだ。


クール・ハークはDJプレイの基本を生み出しましたが、彼はブロンクスを出ることなく、その役割を終えた。それに対して、グランドマスターは、その技術を完成させただけでなく、その完成させたプレイを外に持ち出し、ニューヨークだけでなくアメリカ各地の黒人層にその人気を広める役目を果たすことになった。特に、英国のパンク・ニューウェーヴ系のアーティストたちの間で、彼の人気は高く、1981年6月、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴは、クラッシュのニューヨークライブで前座を任されていた。(ただし、ニューヨークのパンクスは、クラッシュのように心が広くはなく、彼らはブーイングの嵐に飲み込まれ、2日でステージを降りることになる。)
グランドマスター・フラッシュについて、もうひとつ重要な功績をあげるなら、大ヒットしたシングル「ザ・メッセージ The Message」(1982年)によって、ヒップホップにCNN的な役割を持たせることに成功したことだろう。


当初グランドマスター・フラッシュは、ダンス向きではなくダウナーで地味なこの曲の録音を拒否した。それに対し、シュガーヒル・レーベルのロビンソンとソングライターのエド"デューク・ブーティ"フレッチャーは、トラックのみを録音し、そこにメリー・メルの別の曲向けの未発表ラップを加え、さらに他のメンバーの会話などを加えることで曲を完成させた。この曲はゴールド・ディスクに輝いた5番目のヒップホップ・レコードとなり、「ラッパーズ・ディライト」に次ぐシュガーヒル・レコードの大ヒット作となった。
この曲は曲調の重さ、社会的な混乱や人種差別問題をテーマにした曲としても当時はまだ珍しい存在となった。スローで踊れない曲だっただがゆえに、聴く人の耳に歌詞がより深く響くことになったといえる。この曲から、ヒップホップがダンスのための音楽から新たな進化を遂げた瞬間だったといえる。

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