▪ギャングスタラップの原点
1990年代に一世を風靡した「ギャングスタラップ」は、名前の通りギャング団に所属する若者たちの文化が生み出したラップだ。ロサンゼルスの社会的荒廃がそうした若者たちのギャング文化を生み出したのだが、そうした文化が誕生したのには、やはりその基礎となる歴史があった。そして、その過去の歴史こそ、ヒップホップ誕生の原点のひとつでもある。そして、その中心となる人物が、ヒップホップの三大偉人の一人アフリカ・バンバータだ。
アフリカ・バンバータを中心にアメリカにおける黒人ギャング団の歴史から始めて、ヒップホップ誕生のもう一つの歴史を振り返る。
アメリカにおける黒人ギャング団の誕生は、実は正義のための闘争がその原点にあったようだ。時代は、1960年代末、公民権運動が行き詰まりをみせ、それまで非暴力を基本に行われていた活動が暴力革命の方向へと変化し始めていた。その象徴が、「ブラックパンサー党」の誕生だ。
ニューヨークで変遷する若者の流行。その寿命は、約5年で、地域のライフサイクルと並行している。5年の間にティーンは成長し、自分たちなりの規範やスタイル、欲望をストリートに刻み付け、大人になっていくのだ。ストリート・ギャングは、1968年頃、ブロンクスに戻ってきた。
当時は暴動が毎週のように勃発していた。ブラックパンサー党は、「フリー・ヒューイ」[ヒューイ・ニュートンを釈放せよ]集会を催し、ロサンゼルスの高校に通うメキシコ系アメリカ人は、学校内での人種差別に反対するデモ行進を1万人規模で実現し、チカーノの若者による運動を始めた。ストークリー・カーマイケルやH・ラップ・ブラウンといったブラック・パワーを提唱するリーダーたちも、戦争反対の抗議デモに加わり、コロンビア大学のキャンパスを閉鎖した。
ブロンクス・ギャングのストーリーは、1968年から1973年の裏年表だ。これは革命の裏側であり、例外だったはずのものが、原則となった物語なのである。1968年には、新世代のギャングたちがブロンクスを占拠する準備が整っていた。革命の5年になるはずが、実際はギャング闘争の5年となったのだ。3年の間に、ギャングがブロンクスを支配した。火事続きだった街は、ギャングがそれぞれ縄張りを主張する抗争続きの街へと変貌した。
1971年、ブロンクスのギャングは二つの道を突き進んだ。一つは平和へ向けての道、もうひとつは戦いへ向けての道である。気温が上がるにつれて、サウスブロンクス内での武力衝突も激しさを増していった。
1971年12月2日、ギャング団同士の衝突を止めようとしたギャング団ゲットー・ブラザースのメンバーだったブラック・ベンジーが殺害されるという事件が起きる。
それは一歩間違えば、街中が大混乱に陥る危険な状況でだった。しかし幸いなことに、彼の死をきっかけに和平のための会議が開催されることになり、全ギャング団が集まることになった。こうして混乱の時代に一時的な終止符が打たれることになったが、それぞれのギャング団は解散するだけではなくメンバーに新しい道を示す必要にも迫られた。
そんな中、当時ギャング団の中心的存在だったゲットー・ブラザースは、
1972年に8曲入りのアルバム「Ghetto Brothers Power Fuerza」を発表。同じ時期、プエルトリコ系の若者ウィリー・コローンやジョー・バターンも活躍し始めるなど、それぞれのジャンルで新しい音楽が生まれようとしていた。
ビートルズやビーチボーイズ、ドゥワップなどの影響を受けた彼らの音楽はヒットしたわけではないが、彼らが開催したブロック・パーティー(野外パーティー)は目的を失っていた少年たちに新たな方向性を示すことになった。
▪アフリカ・バンバータの誕生
そしてその中に、当時、最強のギャング団だったブラック・スぺーズの総長だった少年バンバータ・カヒム・アーシムがいた。後に彼は、ギャング団に所属していた仲間を集め音楽を中心としたグループによるパフォーマンス活動を開始することになる。
音楽マニアだった母親の影響で膨大な音楽の知識を有していた彼は、クラフトワーク、フェラ・アニクラポ・クティ、『ピンク・パンサー』のテーマ、ローリング・ストーンズ、マジック・ディスコ・マシーンなど、世界中の音楽を融合。その幅広い音楽性により、気難しい観客を躍らせ続けたシャーマン的存在となった。
さらに彼は人々の意識を高めようという志を持った初のヒップホップ組織、ユニヴァーサル・ズールー・ネーションの創設者でもあった。DJ、ブレイクダンス、グラフィティ・ライティングという「四大要素」の唱道者として、ヒップホップのメッセージを世界中に伝えた伝道師として活躍した。
彼がそうした活動に至るのには、その生い立ちが影響していた。彼の叔父バンバータ・ブンチンジは、著名なブラック・ナショナリストで、彼の家族の大半は熱心なブラック・ムスリムだった。そんな環境で育った彼は家族から精神性を受け継ぐことで小さな頃からカリスマ的な雰囲気を持つ少年だったという。
「皆が、ブロンクスの外では何が起こっているかを彼に教え、語り合っていた。彼がそういう人材だと、早い時点から周りは何となく気づいていたんだ。つまり選ばれし者だったのだと思う」
デヴィッド・ハーシュコヴィッツ(ジャーナリスト)
そんな彼は、家族からだけではなく様々な音楽、映画から影響を受けて育った。
彼が少年時代に見た映画「ズールー戦争」は、英国軍が植民地だった南アフリカで原住民のズールー人と戦争を行い征服する歴史アクション映画だった。自分のルーツともいえるズールー人は、英国軍の前に敗北するにもかかわらず、なぜか彼には異なったイメージが刻まれた。
「当時の俺たちは、コーン、カラード、ニグロなんて呼ばれて、卑下されてばかりだった。そんな時、この映画が公開され、その中ではアフリカ人がイギリスの帝国主義者に対して自らの土地を奪い返そうと戦っていた。ブラック・ピープルが自由と土地のために戦っている姿が、脳裏に焼き付いて離れなかったんだ。そして俺は、『大きくなったら、ズールー・ネーションってグループを作ろう』と決心したのさ」
アフリカ・バンバータ
1975年1月6日、彼の従兄弟が警官によって射殺されるという事件が起きる。そのため、警察とギャング団との関係は悪化し、一触即発の状態になってしまう。
同じ頃、彼はジョン・カーペンタ―の出世作となった「要塞警察」(1976年)を偶然見てそこから大きな影響を受ける。
ハワード・ホークスの名作「リオ・ブラボー」へのオマージュとも言われる「要塞警察」(日本未公開)は、犯罪者たちに襲われた小さな警察署で警察官たちが必死の戦闘を繰り広げる「ザ・カーペンター・ムービー」ともいえる快作だ。(後にこれは「ニューヨーク1997」という新たなリメイク作品を生み出す。)
警察対ギャング団の戦争映画でもあるこの映画の音楽を使って、彼はそのエレクトロ・ヴァージョンとなる「Bambaata's Theme」を発表する。彼にとって、この映画は「ズールー戦争」のブロンクス版に思えたのかもしれない。彼は警察との戦闘をそうした音楽の世界で昇華させることに成功したとも言える。
この年、彼は自作の曲によってコンテストに優勝し、その景品として獲得したアフリカとヨーロッパへの旅に出発した。そして、その旅で彼は初めてアフリカの大地を旅しながら多くのことを学ぶことになる。
「ブラック・ピープルが朝早く起き出して、自分の店を開け、農業やら色々なことをやって、国を支えている姿を目にしたんだ」
そんな当たり前の風景に彼は、大きな感動を得て帰国した彼は、ブロンクスの街に平和をもたらすために働くことを決意する。
「暴力を止めるために、できる限り多くのヤツらを団結させる。それが俺の展望だった。こうして俺はあらゆる地域を回って仲間を募り、抗争をやめるよう呼びかけた」
彼はそうして集めた仲間たちを「ズールー・ネーション」と名付けた。
「ズールーの仕事は、人生を生き抜くことである。心を開き、この地球に存在するあらゆる種類の人々と付き合い、お互いに真実を教え合うのだ。リスペクトしてくれる相手をリスペクトし、決して自ら攻撃者や迫害者にはならない。・・・」
彼らズールー・ネーションたちの活躍によって、ブロンクスは急速に変わっていった。
「ヘルズ・エンジェルズみたいなジャケットを着たり、汚らしい格好をして『俺はギャングで、ブロンクスで最もダーティなワルだ』なんて誇示することはなくなった。ほとんど50年代のギャング時代に戻ったって感じだった。洗練されたサテンのジャケットを着て、カッコいいニックネームをつけていた。グラフィティが流行ってくると、ジャケットの背中にスプレーで絵を描いていた。皆がどんどんクールになっていったよ。文化自体が変貌していったのさ。『パーティーして盛り上がろう』って雰囲気にね」
彼らのモットーは、「平和、愛、団結、そして楽しむこと」。そして、彼らはインフィニティ・レッスンズと呼ばれるメンバーが守るべき基本原理を設定。疑似神学ともいえるような宗教的な教えの体系を作り上げて行く。彼らにとっては、そうした体系の拡大作業の過程ことが意味を持っていたようだ。
「つまり我々は、あらゆることについての知識、知恵、理解と、自由に正義、そして平等を重んじて生きるのだ」
こうしてアフリカ・バンバータは自らの新たな軍隊を完成させた。それは、MC、DJ、グラフィティ・ライター、Bボーイ&Bガール(ブレイクダンサー)、そして彼が連れてきたクルーと、パーティーで盛り上がる観客たちから成り立っていた。
彼の存在は、そのカリスマ性からニューヨークでは別格的存在だったが、彼は自らの思想を外へと発信することでヒップホップの歴史を大きく変えることになる。
そのきっかけとなったのが、ヒップホップの歴史だけでなくエレクトロダンス・ミュージックの歴史を変えた名曲「プラネット・ロック Planet Rock」(1986年)だ。
クラフトワークの「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」用いて作られたこの曲は、バンバータの神秘性を表現する独自の世界観を有しています。シンセサイザーを多用して構築されたこの曲は、複数の文化が共存することで不思議な世界へ聴くものを連れて行く曲になった。
「俺はブラック、ラティーノ、パンクロッカーに向けて、この曲を作ったが、あらゆる人々がこの曲に夢中になり、踊ってくれるとは思ってもみなかった。その光景を見て、『すげえ、こいつは面白い』なんて言っていたよ」
このレコードの制作にかかったのはわずか800ドルだったが、65万枚のセールスを記録したことでレコード業界を驚かせた。しかし、本当に驚くべきは、その影響がヒップホップだけでなく、様々な分野へと広がっていったことだ。その影響力の大きさは、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」に匹敵するものだった。
「ヒップホップ・ムーブメントにおいて、おそらくこの曲よりもインパクトがあったレコードは「ラッパーズ・ディライト」だけだろう。でも「プラネット・ロック」はまったく別の方向性を持っていた。ヒップホップは都市部のマイノリティーだけが聴く音楽ではなく、あらゆる人々を取り込む音楽だということを教えてくれたレコードだったのさ。ロックやニュー・ウェーブのファン、ダウンタウンにやって来たアップタウンの人間にも受け入れられた。フランスやイギリスからヒップホップの取材が殺到したのもあの頃からだな。ヒップホップはグローバルな存在になったんだ」
こうして、彼が生み出した世界観はブロンクスをも飛び出して世界中へと広がることになった。そして、同じ頃、彼とは別にもうひとりヒップホップを完成の域に高めるアーティストが現れた。